魏→晋→南朝
三国時代
後漢の滅亡後中国には3つ国に分裂します
有名な三国志の時代です
魏(220から265)
華北一帯を支配します
曹操(位216から220)は実はまだ魏とはいわれていないのですが魏の基礎をつくった人物でもあります
曹操は屯田制という土地制度を行います
曹ひが魏の初代皇帝として君臨するようになり魏とよばれるようになるのでした
曹ひは九品中正による官吏登用
蜀(221から)
四川省
劉備により建国されるものの途中で魏に滅ぼされてしまいます
呉(222から280)
江南地方
孫権
最終的に魏が力をつけていきます
西晋
都は洛陽
司馬遷(武帝)
魏より皇帝の権利をもらい建国しました
西晋王朝の失敗
占田・課田法とう新しい土地制度を行いました
しかし司馬炎の死後八王の乱がおきていしまいます
外戚と晋の一族らが対立・内紛が起きてしまします
八王の乱は異民族の力を借りて
匈奴によって滅亡してしましました
五個十六時
異民族が中国の北側に入り込んでくる時代になります
中国の北側に五胡という5つの民族が入ってきてしまいます
東晋
都:健康(南京)
せっかく統一したにもかかわらず異民族が入り込んできてしまったために
司馬よう
北魏
五胡のひとつ鮮卑の国家
大武帝の時代に華北が統一されます
つまり華北を統一したのは439年ことでした中国時ではないのです
柔然(モンゴル)との対立
道教の国教化
孝文帝(位471年から99)
均田制・三長制
洛陽へ遷都
漢化政策
北方民族であることをやめて漢民族すなわち中国人のような振る舞い・生活スタイルをとりいれるようにしました
南朝(420から589)
中国の人たちは長江のある南側にあつまってくるようになります
このエリアを南朝と呼び
都:健康
宋→斉→梁→陳
江南の開発(長江以南の地)
漢民族の豪族や農民華北の戦乱をさけて移住を開始
門閥貴族の台頭
どういうことかというと一度のし上がってしまえば貧乏になることはないということ
乱世だから栄えたもの
乱世だからこそ皇帝に縛られることもなかったこともなり自由に表現をすることができたのもこ乱世の時代ならではです
清談(老荘思想に基づく哲学的談論)
後漢末期以降の政治の混乱から儒教だけに重んじる習慣が衰えて自由に談論する風潮がはっせいするようになりました
ある意味現実逃避的な議論のことをさします
仏教の流行
仏教は平等思想であるためとてもはやりました
仏教がはやるのは平等をとなえているからもともとの身分ではなく下克上でのし上がる時代にはうけいれられるわけです
仏図澄(ブットチョウ)鳩摩羅什(クマラジュウ)は西域出身の2人が積極的に仏教をひろめました
莫高窟(ばっこうくつ)
雲崗の石窟寺院
洛陽付近の竜門石窟寺院となる
詩
陶潜()
謝霊運(しゃれいうん)
『山居賊』という自然の美しさをあらわした作品が有名
照明太子
『文選(もんぜん)』対句を多用して印を踏む形式を作り上げた
絵画・書道
顧愷之(コガイシ)の作品『女史』宮廷を舞台にした人々の生活を描いた
王義之(オウギシ)『蘭亭序(ランテイジョ)』
歴史学
『魏志』倭人伝
魏に朝貢したつまりあいさつをした邪馬台国の卑弥呼の記述が『魏志』です
この時代は歴史書は『魏志』ぐらいしかない
実学
『水経注』→地理書
『斉民要術』
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