古代中国史 さっくり学習

世界史

文明→(夏)→殷→周(西周→)(東周→)春秋戦国時代→秦→漢(前漢→新→後漢)

中国の2つの文明

黄河文明

中国には二つの川があり皮を中心に文明が形成されます

仰韶文化

黄河の流域に形成された文化のなかで有名なのが仰韶文化です

アワ・キビなど雑穀を栽培していました

さらに雑穀を保存するための彩文土器

竜山文化

黒陶(薄手の土器)・灰陶(厚手の土器)

邑(ユウ)の形成さるようになりました

長江文明

長江は中国で一番長い川です

河姆渡遺跡

稲作を中心に生活をしていました

伝説の王朝のため実際にあったかは現在では確認できていない

後期の都遺跡殷墟より当時どのような政治をしていたのかがわかります

大邑の商を盟主として連合国家を形成していた

神権政治という占いに基づく政治を行っていました具体的にどのように行ったのかというとカメの甲羅や動物の骨に文字を書いて

甲骨文字ですこの甲骨文字が漢字のもとになったといわれています

周の王により敗れて滅亡していまいましたちなみにこのように王朝が変わることを易姓革命といいます

王様の名字が変わるから易姓といいます

王様の名字が変わるから王朝が変わると覚えておくとよいです

周(前半の西周・後半の東周)

西周(紀元前11世紀から紀元前770年前)

都は鎬京(こうけい)において渭水に建国をおこないました

封建制

領土を統治するにあたって封建という統治体制をとりましたつまり一族などに封土を与えて統治をされていました

親戚を地方に割り当てて統治をまとめたって感じ知事にあたる諸侯がみんな親戚というかんじです

つまり周の統治は血縁関係を重視した統治をおこないました

宗法

宗族つまり父親側の一族内で守るべき規範を作りました

西周でなくなる瞬間

異民族の侵入により都が陥落してしまいます

ですがこのタイミングで王朝は変わりませんでした東側に逃げたのです

東側に逃げる前を西周その後を東周と呼びます

東周

春秋時代

異民族に敗れて逃げてきた東周から春秋時代がはじまります

力のある一族たちは尊王攘夷を掲げて王様を助けようと動いてくれます

尊王攘夷を掲げて斉の恒公や晋の文公があげられます

戦国時代

戦国時代に突入してしまうのです

つまりこのタイミングで王様を守れ!という考えから王様をたおせ!という考え方にシフトしていくのでした

晋の分裂が起こってしまったことが起因しているのですが下克上により韓・魏・趙に分かれて実力主義ととなり実質周は無力化してしまうのでした

韓・魏・趙・秦・楚・斉・燕

春秋・戦国時代の社会変化

牛耕(耕作方法)と鉄製農具の普及が行われるようになりました

牛や鉄製農具を農業に取り入れることによって効率がよくなりより多く作物を作れるようになりました

しかし作物は収穫してしまうと保管がきかなくんなってしまいますよね

青銅の貨幣がここで誕生するようになります

代表的な貨幣は刀銭、布銭、円銭、蟻鼻銭があります

諸子百家

混沌する乱世の中で新しい思想が生まれるようになりました

この新しい思想のことをまとめて諸子百家といいます

諸子百家のなかでも

考え方の基礎となった儒家

儒家は仁(他人への親愛の情)と礼(仁の具体的行動)

同じ儒家の中でも孟子は性善説・荀子は性悪説を主張しました

性善説は生まれながらに人間は善である

性悪説は人間は生まれながらに悪であるという考え方です

儒家反対組

墨家

道家

道家は儒家の考え方が大嫌い道とは人が人として守るべき教えを追求しました

老子・荀子

無為自然人間は生まれながらの状態がベストってこと

儒家応用組

法家は法による法による統治を主張しました

儒家の性悪説をベースに考えられているのが法家です

人間は生まれながらに悪なのだから

戦国時代の秦はどのように強くなったのかをみていきます

秦は中国の西側に位置していました

孝公

都は咸陽(カンヨウ)

宰相の商鞅(しょうおう)のが中央集権化を目指したことが秦が乱世で力をつけたひとつのよういんです

そして政が王位につくと

秦の王である政の時代にはじめて中国を統一しました

中国史上はじめて皇帝という呼び名を使用しましたなので政は始皇帝ともいわれます

始皇帝の国内統治

郡県制を実施

地方の統治のことです

全国を郡にわけて

焚書・坑儒

思想・言論の統制のことをさすのですが焚書・坑儒が始皇帝の統治の厳しさの象徴でもあります

貨幣の統一

半両銭

兵馬俑を副葬

始皇帝の対外政策

長城(万里の長城)の修築

匈奴の

始皇帝の死後

始皇帝が死んでから不満が爆発してしまいます

陳勝・呉広の乱が発生してしまいます

ちなみに農民の反乱は中国史上はじめてです

陳勝・呉広の乱は農民の反乱なので一年たらずで鎮圧されるのですが・・・・

陳勝・呉広の乱がきっかけとなり

秦の滅亡を招いてしまいます紀元前206年のことです

秦が滅亡したことにより次のリーダーが決める争いがおこります

項羽(楚の銘家出身)と劉邦(農民出身)の二人が争いを行うことになります

前漢

高祖(紀元前202から紀元前195)

前漢の都は長安

劉邦から始まる漢という王朝は秦の失敗を反省した統治からはじまりました

皇帝の命令が地方までとどくという体制は素敵だったのだけれど厳しすぎたのが問題でした

そのため考えられたのが郡国制です

ちなみに高祖の祖は建国者を表す文字になるということを覚えておくと今後の学習に役立ちます

郡国制(地方統治)

直轄地には郡県制それ以外は封建制を施行するというスタイルをとることにしました

景帝

高祖がなくなってしまったあと良い皇帝がなかなかでてこなかったのですが

ぢょこうの領土削減

わががままな諸王

武帝

紀元前141から紀元前87

景帝の子供にあたる武帝は

武帝の死後は皇帝の権力は衰退してしまう

武帝の国内政策

実質的に郡県制的統治へ移行

郷挙里選()

儒家の官学化

塩・鉄・酒を専売つまり皇帝しか販売をできないように利益を確実に得るようにしました

均輸と平準の実施をおこない

五銖銭

武帝の国外政策

武帝という名前からもわかるように武帝はめちゃくちゃ戦いをしたひとでもあります

張騫(ちょうけん)を大月氏に派遣して

匈奴をぶっ潰すためにどう締結を目指しました頑張って張騫は大月氏にたどりついてのですが結局は同盟を締結することはできませんでした

しかし武帝は張騫のことを高く評価します

張騫ははじめて大月氏周辺の地理、情勢を知ることができたからです

張騫が旅したエリアはのちに交易ルートとなりそしてのちのシルクロードとなるでした

汗血馬の獲得も張騫の遠征による賜物のひとつです

ほかにも武帝が行った対外政策として

  • 匈奴の討伐
  • 南越の征服
  • 衛氏朝鮮の征服

前漢の衰退期

武帝の死後前漢は衰退してしまいます

武帝により多くの

豪族(地方の実力者)の台頭

宦官

外戚(后の親戚)

新(西暦8年から23年)

王莽が治めた新は都は長安にありました

王莽はもともと前漢の外戚

復古主義として周の時代の政治戻そうとしたり土地の固有化を行い豪族の反発をかってしますのでした

赤眉時代

後漢

後漢は皇帝の力がよわかったにも関わらず200年も続くという不思議な王朝です

交易で国を維持していました

劉秀

洪武帝は都を洛陽において

豪族の力で外戚を排除えおこないました

つまり豪族の力を借りないといけない状態ということは皇帝の力としては激弱であるというこです

後漢においては皇帝は力をもたない存在になっていました

しかし、交易がさかんであったことによりお金があったの200年もつづいたのです

倭人との交流

倭人とは日本人のことです

この時代から日本人との交流がスタートうるのです

金印の授与

東西交易の発展

西側地域との交易が後漢が200年も続くく理由でした

班超(ハンチョウ)が西域の警備を行っていました

ハンチョウの部下の甘秦はローマ帝国へ派遣したりしていました

しかし交易がうまくいかなくなると

党錮の禁(166・169)

宦官が官僚を逮捕し投獄や処刑を行うなどとう自体がおきてしまうのでした

ついに184年黄巾の乱とよばれる大規模農民の乱が発生していまうのでした

太平道の長平

漢の時代に発展したもの

儒学の発展

漢の時代儒学は多いに発展をするようないなります

五経(儒学の経典)

訓詁学の成立

訓詁学とは後漢の時代の儒家のことを指しています

訓詁学は後漢の時代にふさわしい言葉におきかえて

文字の記録

今までは竹簡が一般的だったのですが製紙法が確立したことにより漢以降は紙をつかうようになった

歴史書

司馬遷()

『史記』古代から武帝までを紀伝体で記述をおこないました。

班固(32年から92年)

『漢書』前漢一代の歴史書

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